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何かをつくることへの問い

年末から更新していませんでした。

印象的なこと?というか、文章にしてのこしておきたいなと思うことが最近ありました。

ここんところ、ずっと何かをつくることをしています。原稿を書いたり、マニュアルをつくったり。

何かをつくるということで一番大切なことは何でしょうか。

 

この問いにいつも戻るのですが、それは「誰の為にそれはあるのか」という問いではないでしょうか。

 

私はこの2年間、インプットとアウトプットを繰り返してきたつもりですが、毎回このアプトプットで苦労します。

何かをつくるという行為は、自分という登場人物では決して完結しないということ。この意識こそが大事なのだと。

昔は、そんなこと考えてもみなかった。レポートはただまとめればよかった。

もうそれは、言いたいことを言うみたいな感じでした。

そこには、「誰のため」というものはなくなってしまっていて、登場人物は、「現在の私」くらいでしょうか。

誰のためは、別に他人である必要はないと思いますが、何かをつくるということは少なくとも、「将来の」自分、他人、か、「今」の他人に伝えるためにあるのではないでしょうか。

 

そして、その人には、言いたいことは一つしか伝わらないということが分かってきました。大事なことは一つしか伝わらないのです。いっぱい書くと大事なことも伝わらないのです。

だから、その大事なことを一つに絞ることに凄く頭を使わなければいけないなと。

 

では、大事なことを一つに絞るためにはどうしたらいいのでしょうか。

それは、伝える相手が何を望んでいるのかを考えることです。

相手になりかわる、作り手の自分の頭を一回リセットする。

こんなあたりまえのように聞こえることをすぐに忘れてしまうものです。

 

私の上司がこんなことを言っていました。

 

「その人のクリエイティビティって、その人がどれだけ伝える相手のことを考えてものをつくったかによるとおもうんだよね」

 

まさにその通りだなと思いました。

「クリエイティビティ」って意外と単純だなと思うかもしれませんが、意外と奥の深いものですね。クリエイティビティは小手先のテクニックではないのですね。

 

「こんなもんだな」って勝手に限界つくるのではなく、「まだまだこんなもんじゃない」って思いながら、精一杯頭を使いながら日々何かをつくっていきたいです。

 

私の2014

2014年も色々あったな。とおもう12月31日

 

シュウカツからはじまって、色々あったけど入りたい会社に内定もらえて順調にいってた4,5月。

でも、いろいろドラマありました。

 

これから入る会社の人事部長に喧嘩売って(でも買ってないとおもいます)

でも真摯に受けとめてくださって、「この会社ならやっていけるかもしれない」となんとなく思って、今にいたります。

 

まぁ、あれよね、、会社の人なんて信用するもんじゃないし、大人の言っていることなんて半分嘘よくらいで思っていたほうが、今後は楽なような気もしているので、あんまり期待はしてません。

嫌になったら辞めればいい

 

これはね、インターンしていろんな社会人と出会って思ってきたことです。

大学にいるとね(某w大学)まぁ、高学歴でいわゆる大企業で、終身雇用制がまかり通っているような企業で、、、なんか先輩とかみるとね、「仕方なく働いてるよ、学生いいよな」っていう顔でみてきます(ちょっと偏見かも)

(あながち間違ってないと思うけど)

 

でもそういう人ばっかじゃないんだ!このよのなかは!!

っていう熱い気持ちになれたりしました。インターンやっていて。

私の愛する代表がね社会人になるとき、

さっきいってたみたいな先輩が、グラウンドにきて、

「おまえら学生でいいよな」っていう姿みて、俺はそうはならないって思ったていうエピソードに共感するんだけどさ、

 

「社会人楽しいぞ」っていう気持ちで働いていたいな。青いかもしれないけど。

元気になれないじゃない。ネガティブな気持ちで何かをやり続けるなんて私にはむり。

 

なので、気楽に考えたいと思います。

 

6、7月は、インターンを続けてやろうってなったくらいかな。

この月も大変だった。

一きに4人増えて、研修やらなきゃとか、仕事どうやって回そうとか、今の仕事についてもっと、俯瞰してみれるようになった月だ。

何かを継続してやるのっておもしろいことだってこの時感じました。

 

8、9月はアメリカに短期で語学留学して

10月は、卒論がそろそろ忙しくなって

11月は、インタビュー調査を毎日してた。

 

社会人へのインタビュー本当におもしろかったし、インターンの集大成というか、

ここの組織にこうやってかかわれることが幸せだなってとても実感しました。

本当に暖かい人ばかりでした。

「コミュニティデザイン」っていう言葉をよくみみにしてて、2年前はこの言葉になんの違和感もなかったんだけど、今はちょっと違和感がある。

このことばって、凄く現場からの距離感を感じてしまう。

コミュニティデザインの担い手は、そこにいる一人一人なのに、神みたいな人がいてまるで、それを全て設計してますみたいなちょっと傲慢さを感じる言葉になったなった。

(これは個人の感覚的な問題なんで、あれですけど)

きっと、もっと当事者になったんだろうねって感じた11月。

 

12月は、分析と卒論の本文が忙しくなったりしたかな。

でも、バレーのクラスが楽しいってなった。

バレーは今までやってきたスポーツで一番楽しい種目です。

もうちょっとで終わりも切ないな。。。

 

そんな感じか。

 

相変わらず怒濤の1年間だった。

2015年はどんな年になるのでしょうか。

 

God always prepares the best way for me!! He is my provider.

Thank you Jesus, and everyone.

 

留学で思うこと

長らく更新していなかった。

 

今私はアメリカにいます。1ヶ月半の語学研修。

 

最初のクラス分けのテストであんまりできなくて真ん中のクラスになっちゃってちょっとがっかりした。

でも、実力だったからしょうがない。

日本人の大学生と結構長い間話したりしなきゃいけなかったりするとちょっと疲れる。

なんで疲れるかというと色々理由はあるけど、1つはモチベーションの違いだ。

 

何しにきているのか分からない人とかいるとちょっとなえる。日本にいる時でもそんなのいっぱいいる。

でも、私はそういう人と関わらないという選択をとってきた。

 

2つめは、ネガティブな人が多いことだ。

「できない」って言葉をたくさん聞く。これも萎える。自分は能天気ではないけど、ネガティブではない。というか正しい判断をしたいといつも思っている。

 

むやみに「できない」といっている人は、「なんで」できないのかってことを考えられていない。

そういうのがなんか嫌だ。そして改善するために行動にうつさないのはもっと嫌だ。

 

例えば、「全然しゃべれない」といっている子がいる。そのこはここに来てからずっとそんなことをいっている。

でも、なんで喋れないのかそこが全然わかっていない。文法ができないとか、すぐに文章が頭でつくれないとか、そんな理由をいっている。

果たして、ネイティブでもなんでもない私たちが、まったく正確で即座に文章を頭で組み立てられるようになるのか。そんなことを考えた。多分ならないと思う。

そこで、私はとにかく外国人の友達にこっちから質問するようにした。そしたら会話が続いた。あと、はっきりしゃべって、通じなかったら言い方を変えた。あと、「直訳」しょうとすることもやめた。

 

結局、そういうのは全部日本語での会話でも同じことが言えるんじゃないかなと感じた。

質問しなかったら会話はおわる。

そんなの言葉が違っても同じことだ。

 

できないといっている人は、日本語でもそんなにできていない。それに気づいていない。

自分は何を喋りたいのか、何を聞きたいのか、って本質的なところを考えれば、そんなに難しい言い回しや単語を使わなくても聞くことはできるということも分かった。

 

あとは、それを使ってブラッシュアップしていくしかない。

 

そうやってやっていくうちにちょっとずつではあるけど、喋れるようになったような気がしている。

 

自分のことを棚に上げるつもりはまったくないけど、できないできないいっているやつは口ばっかだ。

頭を動かして、そして行動にうつす。

これはいつどこにいたって同じなような気がしている。

 

英語について

 

今日文法の先生と日本の英語教育についてちょっと話した。中高で習うのは、文法とボキャブラリーに日本の教育は特化している。

すごく大事なことだと思う。

しかし、先生が言っていたのは、「イマジネーションやクリエイティビティがない」ということだ。

文法はシステマティックに習ってきたけど、本当は文脈に応じて使いこなせなければいけない。「使いこなす」ということに、それらのことが含まれているように感じた。

こっちのテストを受けると日本で受けてきたテストとちょっと違う。単語のテストでも、文脈から単語を選ぶような形式が多い。推測しなければいけない。

日本は、意味さえ分かればいい。

だからその単語の使い方がよくわからないってことが多くある。

 

もっとならったことを転移させるようなことをしていけたらいいなと思った。

今週は折り返しなので、「使い方がわかる」ことを目標にしていきたい。

 

色々書いたけど、結構楽しくやっているし、色んな国の友達もできたし、アメリカ人の友達もできた。

楽しいところにもいってるし、勉強もしている。英語に対するモチベーションもあがったし、興味も増した。

 

将来、こういう環境で仕事や勉強ができたらいいなと思った。

 

時間が止まっているような

ずっと会わない人とかの顔を思いだすことがちょっとあった。

 

大学1年生の時好きだったサークルの4年の先輩の顔とか。

彼とは、1年生の時の7月の3週目の火曜日の花火大会に行った。

この花火大会は毎年同じ時期にやっていて、この前たまたま友達がSNSに「花火大会に行った」ということをつぶやいていた。

 

ふと思い出してしまって、ちょっと切なくなった。

 

その彼とは、結局何にもなく、何にもないというのはウソになるかもしれないが、あれはきっと「何にもない」の部類に入ってしまうのだろう。。けど、

何にもなく、終わってしまった。だから、楽しい記憶だけが時間が止まったかのように、1年生の花火大会の日に紐でしばられているかのごとくそこにいる。

 

そしてそれはまるで、真空パックされたハンバーグみたいに、何かの拍子で思い出すから切なくなる。(今回だったら、友達がその花火大会にいったというつぶやきだ。)

「何年前の楽しい記憶を今も生きているかのように鮮明に思い出しているんだろ」とばかばかしくなる。

あと、もうあの時の先輩と同い年かーと思うと、なんか変な感じがする。

時がとまっている人は基本的に私の中では歳はとらない。彼は21歳のままでそれ以上大人にならない。

 

こうやって、いいことも悪いことも、ある出来事によって「真空パック」にされてしまって、脳みそのなかに保存されていくって考えると、記憶ってなんかある意味、「時」を感じさせないなと思った。

 

自分が老いているのは記憶の積み重ねで分かるかもしれないけど、記憶は老いない。

 

わけのわからない投稿だった。

明日はワークショップのお手伝いだー

もやもや「伝えること」の難しさ

頭がもやもやでいっぱいになると、眠れなくなってしまう。

今朝は悪夢で目がさめたし。最近睡眠に支障をきたしていて、全てによくない影響を与えている。ような気がしている。

 

今夜ももやもやして眠れなくなってしまったので、ブログでも書こうと思った。

 

もやもやの原因は私のコミュニケーションにおける不器用さだ。

 

自分が意図していることとは別のことが伝わってしまう。

今回はメールや会議でのことだ。

私は世代を異にする人とのやりとりが多く、文脈を共有できない人とコミュニケーションをとることがしばしばある。

最近では、「どこまで文脈を共有すればいいんだろうか」ということが気になっている。

限られた時間だったり、メールだとあまり長文になりすぎないようにと「枠」もそれなりに気にしなければならない。

同時に、「言いたいことは何か」を誤解なきように伝えるために、言葉を選ばなければならない。

後者が難しくて、つまずいている。

 

しかし、この課題感だとどこに対して何をすればいいのか、改善されるのか、検討もつかない。

 

一体、何が原因になっていそうなのか。

 

「相手視点が足りていない」

そういうことは簡単であるが、では「相手視点とは何で、それをどう獲得するのか」ということだ。

 

そこを深く考えないと、この状況はよくなりそうもないな、、

 

ひとつひとつやっていくしかないんだろうな。。

 

それと思い出したけど

来年から働く会社の人事部長とお話した時

「君は、真っ直ぐでピュアだから色んな人に叩かれると思うし、衝突すると思う。でもそのとき、衝突した人をどう巻込んでいくかは、自分の伝え方次第なんだ。衝突したときにとる行動として、75%くらいの人は、その人をディスって自分は逃げる。20%ぐらいが、伝え方を工夫して、その人たちを巻込む。5%はコミュニティを変える。〜」って話しは続くんだけど

私は部長のいう20%の人でありたいなと思う。

 

余談だけど、人事部長は本当によく人を観察している方で、面接の時に

「君は、焦って短期的な目標につっぱしって、この環境にイライラするんじゃないの?」

という言葉も思い出した。

最近の自分を見ていると、焦っている。別に何かに追われているというわけでもないけど、、

「成長しなければ」という焦りだ。

 

こういう焦りは、あんまりいいことなさそうだし、長い目でみたらそのうち燃え尽きそうでそのほうがこわいなと思う。

 

焦らないで、着実に、、と自分に言い聞かせるしかないんだろうなと思うとちょっと悲しい。

 

さて、おやすみなさい。

 

 

 

人に何かを伝えるということと人の話しをよく聞くということ

最近私が2年の12月からやっているインターンの後輩が3人も入ってきた。去年の12月から入ってきた子も入れて5人になった。

 

今まで、2人とかでやっていたところに突然だった。

 

それで、研修をしなければいけない。

うちのインターンの仕事はとにかく細々している。そこらへんの企業のインターンと比べても遥かに細々としているし、かつ結構それが重要だったりする。

そして、1つ1つの仕事が割とトリッキーでもある。それが楽しかったりもするんだが、多分辛い人にはツライ。

 

そんな仕事たちを大まかに紹介するということが研修の第一のステップだ。

歴代のインターンが仕事の研修マニュアルを作ってくれてそれがよくできているので結構わかりやすい。

まぁ、とはいっても実際に仕事をやりながらじゃないと分からないことが多いので実際に仕事をやらせてみる。

 

そこで私は仮説を立てた。

その前に問いとして「早く仕事を覚えてもらうにはどうすればいいか」という問いだ。

そして仮説は

①自力で見本に近づけるために努力して、人からチャックをもらって修正していく

 

ということだった。経験則的に結構自分で時間をかけてできるところまでやったものは、最初時間はかかるが結構覚えるのは早かったという印象があった。

でも実際にやらせてみたら、どうやらそもそも「見本に極力近づけるためには何をすればよいか」ということを考えることは結構ハードルが高いということがわかった。

別にできなかったその子を責めようとしているわけではない。

 

私の伝え方と教え方が間違っていたということに気づいた。

 

そもそも「見本と同じように」というのは結構難しい。

見本は結果でしかない。それまでの作業の工程やつくり手がどのような点に注意してそれを作ったのかわからないからだ。

 

もっと具体的に説明する必要があった。そのためには作業工程をみせる必要がある。プロセスを記憶させるような足場かけが大切だということを学んだ。

 

私は、「自分がこうだったからみんなそうだろう。できるに違いないだろう」という思い込みが最近ますます増えてきたように感じる。

ここ1年そういえば、似たような界隈の人としかコミュニケーションをとってこなかったし、大学2年の頃から、後輩をもつことなくずっと、「できる先輩」に囲まれて、自分が一番何もできない状況にあるということを自覚して生きてきた。

そのことが裏目にでてしまった。

 

誰しも新しいことにチャレンジする時はできないことは前提にあるということを頭にいれつつ、自分もそうだったということをわすれないでおきたい。

と思った5月だった。

 

環境に慣れてしまうとそんなふうにして、いろんなことがあたりまえになってくる。

あたりまえになってくると、人にわかりやすく「伝える」ことも、そして人の話しをよく「聞く」ことも忘れがちになってしまう。

 

だから今、こうして後輩をもつという新しい環境は私にとってすごくプラスな経験だと思った。

 

環境をかえること=コミュニティを変えること

 

では一概に言えない。

とどまることで変化することもあるし、自分で変化を生み出せていけたらいいな。

 

長所と短所

あなたの長所と短所はなんですか?という馬鹿げた質問。

 

 

きっとあたしの長所と短所は「素直なこと」なんだと思う。

 

人よりちょっとまっすぐ生きてきたのだと最近人をみると思う。

 

素直でいい!というときと、素直でだめな時がある。

使い分けるのが苦手だ。

 

素直な人は信頼できる。

 

一緒にいて裏も表もないから、「こいつ本当は何おもっているんだろ」と考える必要もない。

 

裏も表もないというより、裏と表も両方見せるってことかな。

 

陰と陽が人にはあって、どちらもあるから人は素敵だし、どちらも見せてくれる人があたしは好きだ。

 

けど、あまり最近建前を使った記憶がないほど、本音で生きているきがする。社会人になったらそうもいかなくなりそうだな。

 

できるだけ、本音を言える場所がありつづけることを祈ろう。