「教育」の価値「学ぶ」意味
なんだか梅雨って感じがしてきて、朝起きるのがつらいです。
学校休もうかどうか毎朝葛藤していますw
さて、昨日は授業でした。ボーダレスに生きる女社長の講演をきいて、グルワの様子を見ていました。
社長が大学生の時は不景気の絶頂にあって、キャリアビジョンが何も浮かばなかった社長は早々に就活をやめ、NYへ。そこで必死にやりたいことを探して、日本に帰ってきて企業。とざっくりいうとこんな感じの方でした。
印象に残っている言葉は「20代はネタをいっぱいつくったほうが、30代が絶対楽しい」
「自分で決断してきめたことは、失敗と思えるようなことでも将来絶対に消化される」
ってことでした。後者は私も感じることがよくあります。
妥協とかがすぐに浮かんでしまいますし、失敗するの恐いし、保険はどこかにかけておきたいし、っていう考えは浮かんでしまいます。
でも、「ネタになるじゃん」って思えば、ちょっと前進する気になれました。
授業のあとは、事務局に戻ってMTGをして、餃子をたべた。うまし。
話しは餃子からはなれますが、最近「教育」に高額のお金をかけなくても、いい授業が受けられるシステムが広まっていますよね。MOOCとかカーンアカデミーとか。
私がインターンをしているところも、無料の授業を開催してます。
いい授業=お金がとれるというロジックは必ずしも成立するものではないということにだんだん気づいてきました。
それって、価値のあるものに必ずしも金銭的な価値が付与されるという考え方が教育においては崩れてくるのかなとも思います。
財力=学力という今の現状はいいものとは到底思えないし、所得の低い人が多い国ではそれだけで国力が下がるし。教育のボーダレス化というのも着々と進んできますね。。
そうなってくると、今の大学教育とか、生涯学習教育って将来、ありかたが随分かわってきそうですね。
学ぶ価値とはどこにあるのかっていうのをふと考えました。わたしは何しに大学に通っているのか。
知識伝達の一方的な授業にあまり価値がないのではいでしょうか。でも、オムニバスの授業のようにいろんな教授が出てくるものは別の視点でものがみれるので好きですが。。
学ぶ価値は、誰かとの対話で生まれるものだったりするんでしょうかね。オンデマンドでできないことを追求しなきゃいけない。
人ができて機械ができないことを考えて仕事を作って行かなきゃいけなさそうですね。